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OPINION

回復期リハ病院を首都圏中心に展開 ~患者視点の理念と医療ニーズを見据えた戦略~

蒲池真澄(かまち・ますみ)1940年福岡県生まれ。65年九州大学医学部卒業。虎の門病院でインターン。九大大学院医学研究科、下関市立中央病院、福岡大学医学部に勤務。74年下関カマチ医院、81年小文字病院、87年福岡和白病院、97年新行橋病院、2011年蒲田リハビリテーション病院、15年原宿リハビリテーション病院を開設。17年10月現在、病院22、診療所3、助産院1、専門学校7を運営する。社会医療法人財団池友会理事長、一般社団法人巨樹の会会長、医療法人社団緑野会理事を務める。

1974年に19床の有床診療所を開院。四十数年を経て、病院22、診療所3、学校7などを含む巨大な「カマチグループ」へと成長した。現在、福岡県を中心とした九州北部と首都圏で、急性期病院と回復期リハビリテーション病院を展開し、それぞれの地域社会に貢献する医療を提供している。グループを統率する蒲池真澄氏に、医療人と病院経営者の両方の側面から、カマチグループについて語って頂いた。


——医者の9代目だそうですね。

蒲池 元々は、医者になるつもりはなかったのです。兄が九州大学医学部に行っていましたし、私は次男でしたから。ところが、私が高校2年の時に兄が他界しまして、急遽「お前、医者になれ」ということになったわけです。随分抵抗したのですが、結局、医者になることにして、私も九大医学部に進みました。大学では学生運動をしていました。そもそもが、反権力的な家系で、先祖は殿様の診察をするような医者ではなく、反骨精神の旺盛な貧乏医者だったようです。もちろん、学生運動をしていたといっても、そればかりだったわけではありません。勉強もしました。特に外科を志してからは、夢中になって勉強したものです。

——1974年に最初に開業したのが、出身地ではなく山口県下関市だったのは?

蒲池 出身地は福岡県八女郡黒木町です。私が32歳の時に父親が亡くなったのですが、人口3600人くらいの町に、次々と診療所が開業していました。その当時は、戦時中に医者になった軍医上がりの人達がたくさんいて、狭い町に10以上の診療所が開業していたのです。その頃、医学部の先輩から下関に潰れた診療所があるのを知らされて、買い取りました。それが下関カマチ医院(現・下関リハビリテーション病院)です。下関の駅からも近い19床の有床診療所でした。ただ、すぐに患者さんであふれるようになって、後に44床、79床へと増床しています。

——どんな病院だったのでしょうか。

蒲池 当時の私は、幅広い技術を持っているという自負がありましたので、救急を受け入れ、「何でも診る」と決めていました。その当時、救急対応をしている病院がほとんどなく、普通に治療すれば助かる患者さんが、手遅れで死亡してしまうということが当たり前に起きていました。どんな患者さんでも引き受けていたので、とにかく重症の人が多かったですね。周囲に引き受ける病院がほとんどないから、うちに運ばれてくるのです。北九州市や筑豊地域からだと30〜40分かかるのに、海峡を越えて救急車がやってきていました。

人を助ければ収益は自ずと増える

——どんな患者さんが多かったのですか。

蒲池 現在はきれいに開発された街になっていますが、当時の下関は荒っぽい街でした。港町ですから、港湾労働者の事故による外傷が結構多かったのです。それから、反社会的集団が多く、腹を刺されたという患者の手術もかなりやりました。

——そういう患者の対応は難しいのでは?

蒲池 反社会的集団だからといって差別はせず、病気や怪我なら、もちろん治療はしました。しかし、だからといって逆差別はしないぞ、とはっきり言っていました。困るのは、そういう患者が入院すると、組員らが10人も15人も、お見舞いで押し掛けて来ることです。そこで、患者1人につきお見舞いは2人までと決め、それを破った場合には、即刻退院を言い渡しました。

——怖くはなかったですか。

蒲池 怖がっていたのでは、あの頃の下関ではやっていけなかったのです。

——患者であふれた病院の経営状態は?

蒲池 現在に比べれば、病院経営が難しくない時代で、経営状態は順調でした。開業したのは私が33歳の時でしたが、36歳の時には山口県で所得がトップになりました。保険の診療報酬はうまく出来ていて、命を救えば大きな報酬が得られるようになっているのです。毎日がむしゃらに働いて、何年かたった時に、そういうことに気付きました。

回復期リハビリテーション病院に力を入れる

——最初の開業から7年後に新病院を開設します。

蒲池 ベッドを増やしても患者さんがあふれて、廊下にストレッチャーを並べて処置するといった状態でした。もっと多くの人を救うには、広い土地と大きな建物が必要だと考えました。そうして開業したのが、北九州市の小文字病院(現・新小文字病院)です。

——この時は地元医師会の反対にあったとか?

蒲池 そういうこともありました。いろいろ大変なことはあったのですが、とにかく医療に専念して一生懸命やりました。当時、私も含めて医師は3人でしたが、多い日は30台も救急車が来るような状況になり、ここもやはり患者さんであふれるようになりました。最初のうちは、「他所には負けられん」という気持ちでやっていたのですが、他所の病院も頑張ったのですね。そうしているうちに、北九州市近辺では、患者さんのたらい回しなどということはなくなっていきました。

——地域全体の医療が変わっていったのですね。

蒲池 その後、和白病院(現・福岡和白病院)、新行橋病院と続けて福岡県内に急性期病院を開設していきましたが、どこも同じような経過をたどり、それぞれの地域の医療のレベルアップに貢献することが出来たのではないかと思っています。大きく変わったのは、それまでは病院が患者さんを選んでいたのが、患者さんが病院を選べるようになったということです。患者さんが、こちらの病院とあちらの病院を比べ、自分が行く病院を決める。そんな社会を作ったのが、私の人生における最大の功績だったのではないかと思うことがあります。

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